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ハルが来た!


#001
少女は全裸だった。
まっすぐに伸びた、つやのある長い黒髪以外は身体に何もまとっていなかった。その身体が、首だけの牡鹿のはく製を連想させるように、壁から地面に水平に伸びていた。へそから下は、その壁に広がる虹色の波紋の中に消えている。
要約すると、壁から女の子が生えていた。
そしてたとえ身体が半分しかなくても、全裸には違いなかった。
そのいつの間にか現れた、壁から上半身だけを生やした少女が、さも当然のようにホットプレートの上で踊っている牛肉を食べ尽くしていく。こちらの唖然とした視線にようやく気がついた彼女は、焼肉をほおばりながらこちらを向いて言った。
「おいしいよ?」
「違うだろ!?」


第1話 半分少女


ホットプレートの上で歓喜の声をあげていた肉や野菜もあらかた片付いて。
唐突に現れて瞬く間に焼き肉を征服していった少女(?)は、まったりと食後のお茶まで楽しんでいる。それを睨むようにしながら、本来の焼き肉の主である倉桐永一は聞いた。
「で、お前なにさ」
憮然とした無愛想な問いかけだった。
それも仕方ないよな、と永一は思った。もともとからこんな性格なのだ。
(何よりこいつは僕の焼肉を勝手に食い散らかしやがった)
心が狭いと言うなかれ。そもそもただの肉じゃなかったのである。月末まで困窮するのを覚悟の上で買ってきた、最高級の国産霜降り肉なのだ。値段なんて、とてもじゃないが怖くて思い出したくない。一年付き合っていた彼女の、一方的で痛烈な絶縁状メールのせいだった。困惑しながら返信すれば、送り先不明でメールが返ってきた。慌てふためいて電話をすれば、見事な着信拒否だった。そんな感じでやけ食いで衝動買いだった。今になって死ぬほど後悔していたりする。文字通りで正真正銘の文無し学生誕生だ。なんで困窮する覚悟なんてしたんだろ。
そういうわけで、上半身だけの少女だろうとなんだろうと、不気味さよりも先に腹が立っているわけなのである。やっぱり心、狭いんだろうか。
だが、少女は不機嫌を隠そうともしない永一の態度をさも不思議そうに見上げている。
「なにって、なに?」
「いきなり壁から生えてきて、僕の焼肉を食い荒らしたお前は誰だって聞いてんだよ」
「え?」
びっくりしたように目を丸くした。
「そういえば、わたしって誰?」
僕が知るか。
「まさか記憶喪失とかいうんじゃないだろうな」
「キオクソーシツって何?」
「………………」
「あはは、ウソだよ。知ってるよ記憶喪失くらい」
少女はけらけら笑いながら、おかわりヨロシクー、と湯飲みを永一に手渡した。
なんだろう、この痛い展開は。一瞬思考が止まってしまった。止まったついでに、多少冷静さが戻ってくる。
(つーか、よく考えなくてもなんでこいつは裸やねん!)
いかん、焼き肉の執念でそのへん全力でスルーしてた。恐るべし食べ物の恨み。
とりあえず湯飲みはキッチンに置いて、クロゼットからフードの付いたトレーナーを引っ張り出した。彼女のほうに放ってやる。
「ほら」
「?」
やっぱり不思議そうにトレーナーに目をやる彼女。
なんだか今更だったけれど、ちらちら見えて目のやり場に困るのである。
上半身だけでよかった。いや、よくなかった。じゃなくて!
「いいから、とりあえずそれを着てくれ」
「なんで?」
「お前わざと言ってるだろ…」
もそもそとトレーナーと格闘している彼女からなんとなく目をそらしながら、キッチンで日本茶をいれる。同じティーパックを何回も使っているので、色は薄かった。それでも飲めば不思議と落ち着ける。お茶は日本人の心。素晴らしい。永一は自分の分も淹れて、テーブルに持って行った。
「知ってるけど知らない」
ぶかぶかなトレーナーを着終えた少女が口を開いた。
「何が」
「記憶喪失は知ってるけど、わたしが誰かは知らない」
……それを記憶喪失っていうんだ。
永一は白湯のようなお茶を一息で飲み干した。

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